西垣ぽん太のブログ

みんなの日記

友人のつくり方

私は4年の夏まで大学のバドミントン部に属していた。先日ついに追い出しコンパを終え、正真正銘部活を引退した。いまでも、ときどき部活同期とLINEで会話する。それは当然といえば当然かもしれないが、会話するたびに、もはや同じコミュニティに属しているわけでもないのに交友が続いている事実に少し感動してしまう。

 

 

さて、今回のブログでは、私のバドミントン部内での人間関係から4年間を振り返ろうと思う。私の大学生活、とりわけバドミントン部在籍期間を通した精神的な成長は、バドミントン部員Xとの関係性の進展とおおよそ符合する。

 

Xは同期の部員であり、1,2年の頃はそれほど喋る仲ではなかったように思う。私とXとは通学に使う鉄道路線が同じだったため、半年に1回ほど、部活終わりに乗り換え駅で鉢合わせて一緒に帰ることがあった。しかし、私は出来る限り鉢合わせないように乗車位置を入念に選んでいた。これは、別に私がXを嫌っていた訳ではなく、単に最寄り駅までの30分間自分が会話を持たせられる自信がなく、気まずくなることを恐れたことが原因である。

そんな3年のある日の練習後、偶然Xと一緒に帰ることがあった。その日、最寄り駅まで20分ほどを残して、会話が途絶えてしまった。これはまずいと思った私は内心かなり焦ったが、Xの方をみると、非常にリラックスした様子で、さらに言うと途中からうとうとし始めた。私ははじめ、なぜそんなにリラックスできるのかと疑問に思ったが、Xに気を遣われていないと感じたことでこちらまでリラックスしてきた。なるほど、無理に気を遣わないことで双方がリラックス出来る空間をつくるという手法をXは取っているのだ。そのようなマインドセットで自分と接してくれたXに私は尊敬の念をいだいた。

それからは次第に仲良くなり、ときどきお互いに誘って帰るようになる。

 

時は過ぎ、3年の秋にはこのようなことがあった。部活同期全員での飲み会で、偶然静かなメンバーが多いテーブルに私とXはいた。気まずくならないように喋ってテーブルの会話を回そうとしている私や別の同期に対して、Xは「喋って場を回そうとしてくれて尊敬する」というようなニュアンスのことを(真摯な様子で)言った。この発言は、「場は活発な会話によって盛り上がるのが当然」という考え方ではなく、「別に会話が生じなくてもそれはそれでいい」という考え方に基づいているように感じられた。その考え方の存在は私には衝撃であったとともに、感動でもあった。

そこで、私は次のように考え方を変えることになる。すなわち、ふたり以上の人間がいるとき、「喋って盛り上がっている状態が標準としてあり、会話がない状態は標準に対する負の状態である」のではなく、「各々がリラックスした会話のない状態が標準としてあり、会話が発生して盛り上がっている状態は標準に対する正の状態である」と捉えるようになったのだ。この思考の転換により、今まで「気まずい」として不快に感じていた状況を肯定できるようになって、心持ちが非常に楽になった。このことは今でもXに感謝している。

 

なお、その飲み会を経験してからは、ますますXと一緒にいることが心地よく感じられるようになり、Xと部活から帰ることが格段に増えた。そして、4年時の新歓号(新歓に際して作成される冊子で、各部員が寄稿する)ではXからついに「親友」の称号を得るに至る。

 

 

Xとの親交から学んだものは多く、これも私がバドミントン部に在籍したことで得られた財産のひとつだと思っている。

 

 


OGRE YOU ASSHOLE - さわれないのに | me and your shadow (Official Music Video)