脂肪のかたまり
酸化した皮脂の匂いが充満する部屋に連続音が響く。次第に周期が短くなり、爆発をもって再び静寂が訪れる。
特別の事情がない限りそれが繰り返される訳だが、私は何度かうんざりして、手探りでいびきをかいているその人の鼻をつまんで睡眠の阻害を試みる。いびきの音自体が不快であることもあるが、その音がもたらす生命活動の気配が私には厄介なのだ。一度呼吸を止めるとしばらく無音状態が延長されるので、再びいびきが私の意識を捉える前になんとか寝ねばならない。
小学生の頃の私は毎晩父のいびきと格闘していた。
父は寝るとき以外は自分の部屋にばかりいた。その部屋は二階の一番奥に位置し、ドアはいつも半開きで、近づきがたい地下街のような妖気を放っていた(実際たばこの臭いを放っていた)。とはいえ近づきがたいものに近づくのが少年というもので、父のいぬ間を狙って入り浸っていた。
父の部屋には生気のない、異様に怖い西洋の女性の絵や必要以上にぼろぼろな木刀に、棚には猪木の銅像、ピーター・ガブリエルのCDジャケットが収められており、年端もいかぬ私にはさながら『ナイト・ミュージアム』のような心地よい空間であった。
父の部屋での数えきれない発見から私の趣味は醸成された。
父を一言で表すとピエロのような人だった。もっぱら絵は書けないのに豚の絵だけは上手に書けたり、なぜか私の学校での友人全員の苗字を「山岡」だと勘違いしていたり、酔うと上機嫌になって猫の動きを真似たりした。掴めない性格だった。
そういえば父は働くようになってから会社で一度も友人を作ったことがないらしい。社会では情を持って人と接すればいつ足元を見られて出し抜かれてもおかしくないからだと言った。社会の人間を人を騙すつもりのある悪人として疑え、という意味ではない。彼らは必ずしも悪人とは限らないが、皆生きることに必死であり、少なからぬ場合において養う家族を持っていて、なりふり構わずに生きざるを得ないのだ。お前も守る人ができれば分かるよ、とよく言って聞かせた。
そんなそれっぽい思想のどこまでが本当で、どこまでがただ持ち前の人見知りから友人を作れなかっただけなのかは分からないが、その言葉を思い出すと、父の部屋の木刀も少しばかり頼もしく思えてくる。
PARARERU UMAN
とにかく彼女に言わなければいけないと思った。
「J子!」
「んー」
彼女はまたそれに夢中だった。
「またやってるの、飽きないね」
ストローを奪い取りながら私が言うと
「まあいつものこと」
と上の空で返してくる。毎日なんかだったらもう足し算なんか出来なくなっちゃいそうと私は想像してしまうのだけれど、158.7cm57kgの私と比べるとK子は悲しくなるくらい綺麗な体をしていた。
「いつもなのね」
「気付いたらあるよ」
「無くならないの?」
「おかしいわ、ない時には気付けないもの」
「うーん」
と私がうずくまっていると
「今度ストロー返してね」
笑いながらそう言って彼女は走り去ってしまった。